昭和52年03月23日 朝の御理解
御理解 第74節
「かわいいと思う心が神心じゃ。」
神心を目指すということが、金光様の御信心だと思いますが。お互いの心の中には、神心とは、似ても似つかない、言うなら、それの反対のような心があるということ。言うなら仏のような心もあるかと思うと、反面は鬼のような心もあるんだという。昨日昨夜です。昨夜というのも昨日ですがね。今朝2時過ぎまで、今日の御霊様のお祭りのお願いを、まあ、させて頂いて。そして今度本当に有り難いと思ったのは、いつも夕べのまぁ御霊様は、合楽に縁を頂く限りの人。
合楽にここ二十数年の間に、合楽におかげを頂いて、縁を頂いた人達。今はもう参ってない人達もある。その合楽と一歩でも足を踏み入れて、縁を作った人、その縁に縋っておる御霊達。ですから大変、まぁそれこそ袖すり合うのも他生の縁という、その他生の縁を縋って頼って、助かりたいという思いを起こしておる御霊達が、もう沢山、数限りなくある。そういう御霊達が。
今日の合楽の、春の御霊祭りに合われるように、一緒にこのお祭りが頂けれるように、というのが、まぁ私が前の晩に、だから前夜祭のようですけれども、前夜祭ではない。そういう内容を持った御祈念をいつもさせて頂くのですけれども。非常に最近はあの、それがあの楽になった。特にこの合楽理念が言われるようになってから、その魂というか、の世界にある人達の助かり具合というか、が分かりが良くなったというか。
もう本当に助かりたいという、言うならば、人間はそれに様々な我情があり、我欲があるのですけれども、魂だけの世界ですからね、苦しいという事と、楽なという事だけしかないのです。ですからその楽な方になりたいという、その願いだけ本当に助かりたいという願いだけを、ならこれだけ沢山な人がお参りして来ておるけれども、本当に助かりたいという、あの願いを持ってお参りをして来るなら、合楽理念がすぐ分かる。
昨夜も田主丸の共励会から帰って来た文男先生と、竹内先生と末永先生と、四人でこちらへ出て来る前、お話しておったんですけれども。もうとにかく合楽の信心は、もうギリギリのところをもう天地の中には、もうまるうせずにはおかんという働き。自然界にはもう、一切をまるうせずにはおかんという働きだけしかあってないと。だから一切の物がまるうなって、どんな岩でも頑固であっても、それがいつの間にか角が取れてこう円く、円くせずにはおかんと。
これはもう動植物に、小さい小動物と言う様なものの上にでも同じような事がある。ですから、まして人間万物の霊長と言われる人間の上には、そういう働きだけしかあっていないんだと。という事が、ならここ私がもう、3~4日、毎日この事を申します。もうそれだけしかないんだから、どういう例えばそこに歯痒い、腹の立つ問題があっても、嫌な問題があっても、ははぁこれで私をいよいよ円うして下さるという働きだなと受け止めた時に、合楽の信心があるのです。
だからそれを反対に受け止めたら、もう合楽の信心はないも同じ事です。昨日文男先生が、その前日が二十一日、福岡の共励会。それから直方の地区の共励会。それから矢部の共励会。この頃、その矢部共励会場で、えらいこの頃荒れておるという話をしております。どんな風に荒れておるかと、いっちょん知らん、聞きもしませんでしたけれど。荒れてるとこう。それをその、どげなこっで、そげん荒れたのち私が言いましたら、末永先生が、今あの直方にあの、伊藤さんも一緒におかげを頂いて。
で伊藤さんが、こう何回かどこで、あの司会をしたらしい。ところがもう一番始めに、さあ今から共励会始めますから、どうぞと言うて、まあ司会を自分がするもんと思うて行ったところが安東さんが、あんたにそん頼んどらんばのち言うて。それから荒れたと。荒れ出した訳ですね。それがその福岡でも荒れたげな。あの矢部でも荒れたげなと。まっ色々討論的なものになったという意味でしょうね。
もうとにかく有り難くなるけいこの共励をさせてもらわうのに、荒れちゃひとつも合楽の信心は、もうあってもなくても良いようなものです。その辺のところがね、もうだから、私はその荒れた模様を聞きもしませんでしたけども、結局合楽の信心を言うなら、まぁそれ以外にはなかろうと。実際どういう事があっても、あっ自分を円うして下さる働きと頂く以外にない。その和の心に喜びの心を、いわゆる信心とは日々の改まりが第一。信心は、本心の玉を磨くのが信心だと言われるから。
愈々磨く事に、改まる事に愈々精進させて頂いて、神様へ向かう所から与えられるのが喜びだと、有り難いというものが。有り難いという心は、自分じゃ頂けん。言うなら昨日の御理解を頂くと、神も喜び金光大神も喜びとこう神も喜び、金光大神も喜ばれるような生き方に私どもがならなければ、喜びというものは与えられんのです。和の心は言うなら天地自然はね、私共に円うなれ円うなれと、円うなる働きを示してくれる。
けれども有り難くなるというのは、氏子私共人間がです、信心によってその天地の気威に叶う生き方。言うならば、金光大神にも喜んでもらい、神様にも喜んで頂くような在り方を、日々の改まりと日々、信心とは本心の玉を磨く事ということに焦点を置いて、精進をする。そこから一年一年有り難うなって来るという。その有り難い心とはの心が、和賀心なんだ。和らぎ喜ぶ心。言うなれば私どもの心の中に、神心と神心と反対の、なら鬼のような心があるとするならば。
もう腹を立てる心というのは、もう鬼の様な心ですよ、腹を立てた時には。夜叉のような心。相手にこう掴みかかって行こうごたる心なんです。だからそういう心をお互いの心の中にあるが、そういう日々の精進がです、いつの間にか神心だけが前に出て来る様なおかげが頂けて来るのです。次の75節にもあるように、人を殺すと言うがという、もう人を殺すと言うて刃物を持って殺さんでも、心で傷つける心で殺す。
もうぐさぐさ。例えばんなら、昨日その矢部とか福岡とか、その直方で荒れたというのはね、たった一人の一言がです、もう相手の心をぐさぐさに傷つけた訳です。だからそういう事はね、どういう事かと言うとね、そういうものが溜まりに溜まるから、言うならば、もう何遍人を傷つけたという事になれば、ひとつの罪が出けるといったような事になるかも知れませんですね。
又はぐさぐさに相手の心を、真っ暗になるように殺してしまうような、在り方になったら、それこそ神が見てお出でですから、人間の世界でならば、ちゃんとお上があって、それぞれのお仕置きはあるけれども、心で殺すのが重い罪じゃと仰せられる。心で傷つける、心で殺すのが重い。それがいわゆる神心とは、反対の心が心の中にあるから、ついカ―ッと来て相手を殺したり、傷つけたりするような事になるのだ。もうこれは不幸せの、もう、第一歩がこれです。
いつも心がイライラしとる、歯痒い腹が立つ。人を殺すような心と、人を生かすような心。それが神心と、言うなら鬼のような心じゃないだろうか。可愛いと思う心が神心だ。その神心を目指して、信心させてもらう。そこでんなら合楽の、もうギリギリの事を、なら、合楽理念と言うても、なら合楽理念を一口で言うならばね、自然界においての働きを、そのまま私共が素直に頂いて。その自然界の働きに便乗するということ。言うなら自然界の心に私どもが同調すると言う事。そこに調和の合う世界がある。
中にはんなら腹の立つような、もう腹に据えかねるような事やら、痛い苦しい思いをする様な事やらが起きて来るでしょう。けれどもそれは自然界は、人間の心を円くしてやりたいばっかりの働きなんだという頂き方。もうギリギリそこなんです。だからその心に賀の心。所謂賀びの心。是は信心させて頂いて、日々の改まり本心の玉を磨く事に、日々精進させてもろうて、神様に喜んでもらい、金光大神にも喜んで頂けれる様な精進をさせて頂く所から、それに引き当てのようにして、与えられるのが喜びなんです。
それが信心の賀び。その賀びと和の心とが一つになった心を、和賀心という。そこには、もう罪もなからなければ、因縁も消えるというほどしの、素晴らしい働きになって来る訳なんです。だからそれをね、皆さんがそうだと思い込む以外にはないんですよ、信心とは。もう私がおかげ頂いて来とる事実は、もうそれ意外になかったんですから。だからそれに徹するという事なんです。
私は昨夜御霊様へお礼を申し、もうあの御霊様の事は、もう神様にだいたいお願いをして、御霊様のなら今までのようにね、それこそ在りとあらゆる合楽に縁のある限りの、その御霊達を、もう強情な御霊があったり、もう自分が苦しんでおるけれども、苦しんでおる事すらも分からないというほどしの、まぁ言うならば仏教的に言うなら、地獄に落ちておると言った様な御霊達をです、もう明日の御霊様のお祭りを会わせよう。あの喜びの中に合わせようと思うて、もうあの手、この手で様々に、もうそれこそ一晩中かかって致しておりましたけれども、この頃おかげを頂いて、それがもうとにかくね、私の祈る世界には鬼がないて神様、昨日頂いたんです。
もう私はこれ頂いてから、合楽理念ていう事は、大変な事だなと私思いましたよ。合楽理念に基づく生き方を私がさせて頂いて、それを現世だけではなくて、あの世の御霊達。しかも、それはもちろん、私に関わり合いのある御霊。なら私に関わり合いていうなら、まぁ一遍でも、合楽の金光様と言うて、参って来たほどしの人ならば、もう袖すり合うのも他生の縁が出けてるんですから。そういう縁に縋って、助からなければならない御霊が沢山あるですから。
だからここではんなら、あの御霊様がここへ見えて、あのお祭りを受けて、賀び例え暫くでも喜んで下さる事が出ける。けれども家から誰ん玉串を上げにげも来んというとが、もうどれだけあるか、実は分からん訳です。それで合楽では、男の総代さん方が、代表で一番最後に、皆が玉串上げた最後に、もう高嶋の家の御霊じゃない。もう合楽に縁のある限りの御霊達を、もう久富繁雄一家の御霊じゃない。
そういう関わり合いの御霊達の遺族に成り代わって玉串を上げるのが、合楽の一番最後に、総代が玉串上げるのは、そういう訳なんです。ですからね本当言うたら、もう御霊様のお祭りの時には、本当に、もう一族郎党ですね。集まって御霊様の前に、いわゆる玉串でも上げさせてもらわなければ、本当言うたらおられん。アンタ達は一遍死んで見てから分かる事、分かるだろうと思う。
ほんにもうほんなこっゃらしらごっやら分からんと思いよったら、ほんなこっじゃったと思う。もうそういう素晴らしい言うなら働きが、いわば御霊様の合同慰霊祭なんです。いわゆる春の御霊の御大祭というのも、むべなるかなという事が言えます。しかも私は昨日頂いてね、私の祈るとこそういう意味でですよ。合楽に多少の縁でも出けた人達の御霊様達の上にはです、もうそこには、鬼がいないという事なんですよ。
鬼がいないという事は、もう地獄がないという事なんです。私はもうこれを頂いて、これはもうちょっとこれは大変な事だなと、私はいよいよ昨日思いました。私がここに合楽に出現したという事、合楽教会がここに生まれたということは、これはもう大変な事だなと。昨日、誰だったかな。( )でしたか、もう私は合楽の先生が偉いという事は知っとるっち。ひょっとしたら、アンタ達が日本一って言うばってん、合楽の先生は世界一かも知れんて。けれども何々という、昨日お届けがあったんです。
それを聞かせ私はあの、頂いとったんですけども夕べのね、私はあの神様から頂いたその事を頂いてから、これは確かにね、私が世界一に偉いとか何じゃないけども、もう世界にたった一つしかないです、本当の助かりは。もう合楽だけにしかないです。もう地獄のない世界です。鬼のいない世界です。その鬼のいない世界に御霊がね、様々ななら修行。それこそ、先日あの高田こういんさんが、地獄の話をしておられたように。
一番軽い罪であっても、一億二千万年という長い間、実が出来れば齧られる、実が出ければ、すぐ枯れてしまうという事を、一万二千年も繰り返さなきゃならない。それが一番軽い罪でそうなんだ。だから人間のほとんどは、もう地獄に行かにゃんという、仏教の生き方で言うとなる訳なんです。だからそういうんなら、例えばどんなに、沢山な経文があろうが、バイブルがあろうがです、そういう事では助からん、教典では助からん、経文じゃ助からん。
合楽理念の確立に寄らなければ、本当に魂も助からん、人間も助からんという事なんです。それはならさっきから申しますように、合楽理念をマスターして、ギリギリのところは、もうここ以外にはないなと。自然界には、もう人間を円うせずにはおかんという働きと、それを信心によって、私どもが本心の玉も磨こう、改まりもしましょうという精進をさせて頂くところから生まれて来る賀び。
その和賀心が、言うならば罪もなからなければ、因縁もない、今まで鬼に苦しめられておった、いわばその魂は、もうその場で解放されるという世界なんです。合楽の世界っちゃそんな素晴らしい世界なんです。けれどもなかなか魂の世界にあるよりも、人間社会のものの方が、助かりにくいというのは、我情があるからだ、我欲があるからだ。もう親先生が言われる事は分かりきっておりながら、腹を立てておるじゃないか。文男さんそういう意味で、アンタどんはおかげ頂いとるばいと言うて、夕べ話しました。
一生腹を立てんて言うんやからのうや、あんた。とてもそれだけでも素晴らしい事。合楽理念を本当にマスターしたら、そうしなければおられないって。
人どん恨んだり憎んだり、とても勿体無うして出来るこっちゃない。合楽の世界には鬼のない世界。鬼の住み着く場がない世界。だからお互いが、その合楽の世界に住まなければいけん。合楽の御信心を頂いとるから、合楽の世界に住んどるっちゅう事じゃない。先ず、善導を受けなきゃいけない。善導はもうとにかく、合楽で皆さんが教導受けとることは、もう最高の私は善導だと思うんです。
そこに有り難い、勿体無いが出けて来なければ、嘘である。何十年信心しとっても、有り難くなれんというのは、いよいよ信心を頂かずに、ただおかげだけ。おかげ亡者である。そして心に花を咲かせる。心に信心の喜びの花を咲かせて、それを常時、常に持ち続けれるようなおかげ。そこに極楽の世界がある。その極楽の世界から、もう一つ向こうに合楽の世界がある。そこには神も助かり、金光大神も助かり、氏子もの喜びじゃという世界がある。神と氏子とが拝み合える世界がある。
そういう世界にですね、鬼が住みつくはずがない。そんな事をお知らせ頂いて、あの御霊様の前に出らせて頂いたら、あの桃太郎さんがね、こうやってあの何かにかけとる、こちらに。前に鬼達がハーッち言って、平伏しとる所の図を頂くんです。もうこれは三十年も前の話ですけど、まだ私がまだ本当の修行中の時分に、久保山先生、秋永先生、正義先生が、まぁどこにでも、あの私の行く所をついて回っておったという時分です。あの時分に、私の事を日本一のあの、旗を立てた桃太郎さんと言うて下さりよった。
久保山先生を雉だ。秋永先生がおサルさん。正義先生が犬の役目を、まぁ果たさなければならない。もちろん吉備団子を頂いてついて来る訳ですけれども。今からその考えよるとね、その吉備団子なんかちゅう事っちゃ、もう大変な事だと思うんですよ。これは金光大神のお徳の塊のようなものです、吉備団子っちゅうのは。私がもうこれは昔から、私はね、もうとにかく、あの私ぐらいなものが、日本一になろうったってん出けんけれども、有り難くなるという事にならば、日本一になれん事はないて私が。
また根が願っても、そげな願いはお前がしたっちゃ同じこつという者は、誰もおるまいと思う。有り難くなる事のために日本一、有り難い日本一にならせてもらおうと。まあそう言う所だったでしょうね。いわゆる桃太郎さんの前に、征服された鬼達がもう、ハーッち言うて平復しとる姿を頂いたんです。だから合楽の世界には、鬼はないです。合楽の世界には、鬼はもう住みつかないんだというほどしの、いわばおかげの世界にありながらです、んなら共励会というのに言うならば、あの喧嘩口論のような事があって良かろうはずがないじゃん。
それがね例えば、あのおかげを頂き合うて行くための討論なら、まだしものこと。けどもお互いが責め合うという事なんか、もう、これは鬼の世界です。例えば合楽理念に基づいたら、責めるということは全然ないです。責めたいなら、自分の心を責めろと言うのですから。人の足元だん見えんのが合楽理念です。一人が責めた。片一方も負けじとまた責める。責め立て、責め合うという世界。
それはもう合楽の世界には、もう似ても似つかない世界だという事をです、皆さんがねだから私はあの世だけに、鬼のない合楽の世界はね、あの世で鬼がない世界だがなら、現世においても、合楽に縁を頂いておる人の世界には、鬼がないという世界を、自分の心の中から、まず鬼を征服しなければならないという事になるでしょう。有り難い勿体無いだけしかない世界を開いて行く。そこから可愛いと思う心だけしか生まれて来ない世界があるのです。神様が可愛いと思し召す。
そしてなら様々な問題なら、問題を通して、円うしてやろう、円うしてやろうという働きが起きて来てもです、それは神心です。けれどもそれをんなら、三角で受けたり四角で受けたりすんならどうなりますか。折角の神心を反対の心で、いわば押し返す様な事をするから、御無礼になる訳です。金光教の信心の、言うならば仏教で慈悲を説く、キリスト教で愛を説くなら、金光教では何を説くかと、今皆さんに聞いて頂いたような、いわゆる、神心を説くのです。
でその神心をいよいよ目指して行くという精進をさせて頂くのが、信心修行であり、そこには、一年一年有り難うなって行く世界。言うならば鬼のない世界に住む事も、この世で現世でそういう世界に住んでおりたい。あの世では言うなら、もう魂だけの世界に、合楽の理念にうるおうておる魂の世界。合楽理念を日々頂いておる御霊の世界には、もう鬼が住みつかんほどしの世界に住んでおられるということ。それで決してなら楽をしておられるという事じゃ決してはない。
ただ鬼から責め立てられるような事が無くなっておるだけのことであって、そこは御霊の言うならば、力次第、徳次第の段階が沢山ございましょう。人間の世界も同じこと。百万持っとる人もおりゃ、五十万持っておる人もあると言う様な事なんです。だから限りなく、なら肉霊共にです、救われ助かって行き、しかも先祖も一緒に助かって行くと言った様な、そういう一つの大きな行事が、霊祭なんです。
そういう一つの、そこにけりをつけるような、私は今日の霊祭にはね、そういう輝かしい、もう本当に御霊様達からお礼が言うてもらえれる。言うならば鬼の世界に住まわせて頂いておるという事だけでも、こんな尊い、在り難い事はないといったような、御霊の喜びの声を聞くことだろうと、私は思います。皆さんも、やっぱり同じこと。あの世だけじゃない。この世にも鬼のない世界に住みたい。
それには愈々自然界には、円うせずにはおかんと、いう働きだけしかないんだと、いう事を思い込むと同時に、愈々信心は本心の玉を磨くもの、日々の改まりが第一という、これにはもう生涯かけて行かなければならない。これで良いという事はないのだから。そこに引き換えに頂かれるのが賀の心。いわゆる賀びの心。いわゆる和賀心が愈々、本当の和賀心になって行くと言う事が、愈々神心が強うなって行くという事にも言えるでしょう、なるでしょう。可愛いと思う心が神心じゃ。神心を目指しての信心ですね。
どうぞ。